6月病~助監督の季節~


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いよいよ暑くなってきた。

そして、雨が多い。

 

毎年この時期になると、助監督に成り立ての頃を思い出す。

 

オラはこの蒸し暑いイヤな季節に、助監督となった。

 

正直に言うと、オラにとっては実に不本意なスタートであった。

 

その作品はテレビの昼ドラ作品で、「助監督見習いとして3カ月間ノーギャラ」という条件だった。

(最終的には、謝礼として5万円いただいたが)

 

オラはその話を断りたかった。

いくら何でもノーギャラでは生きていけない。。。

 

しかし、当時のチーフ助監督に、

「最初は誰でもそんなもんだ。今回頑張れば、次も俺の下で使ってやる。次はF監督の映画だぞ!」

と言われた。

オラは映画監督になりたかった。。。。

そして、その日からその撮影現場で働き始めた。

 

ただし、ノーギャラの助監督見習いだけでは生きていけないし、

第一、撮影所までの交通費さえない。

だからオラは、コンビニの深夜バイトも平行して行った。

 

忘れもしない、当時のオラのスケジュール。

 

7:30 緑山スタジオ入り(22時まで助監督見習いとして撮影に参加)

24:00 府中のコンビニでバイト(6時まで)

7:30 緑山スタジオ入り

 

この繰り返し。

部屋に戻るのは、シャワーを浴びて着替える時間だけ。。。

 

今思い出しても、泣きたくなるようなスケジュールだ。

丸一日働いてもお金がないから、弁当の出ないスタジオ撮影は本当に辛かった。

オラは毎日、緑山スタジオの食堂で、当時70円の冷や奴だけを食べていた。

あとは、バイト先のコンビニで拾ってきた(?)おにぎり。

 

寝る時間がないから、食事休憩の際にトイレにこもって、腕時計のアラームをかけて寝ていた。

 

初めての現場だったので、ろくな働きもできず、わけもわからず、とにかく怒鳴られまくっていた。

先輩方には「22時になると帰っちゃう間の悪い奴」とバカにされていた。

 

「自らも望まず」また「周りからも望まれない」形で、オラの短い助監督人生が始まったのだった。。。

 

そのドラマが終わった後、オラは件のチーフ助監督についていった。

しかし、次についた作品はF監督の映画ではなく、民放の連続ドラマだった。

 

さすがにノーギャラではなくなったが、

どういうわけか、オラは同格助監督の半分のギャラしかもらえないことになっていた。

 

オラは気が抜けていた。

「腐る」ほどの余裕はなかったが、

厳しい現実に冷や水をぶっかけられ、呆然としていたのだ。

どう頑張れば良いか、その方法さえわからなかった。

つまり、

気が抜けていたのだ。。。

そのドラマの撮影初日、オラは高さ3mほどのセットから落ちて膝の骨を骨折した。。。。

ここでも、「間の悪い奴」というレッテルを貼られることとなった。

 

 

結局オラは、なんだかんだでテレビドラマの助監督を数年続けた後、

自分の道を求めて助監督を辞めた。

 

とにかく嫌な思い出の多い時間だった。

しかしその一方で、素晴らしい出会いも多かった。

一人一人お名前を挙げて感謝したいところだが、

名指しで罵ってやりたい人もいるので、、、、

どちらもやめておく。。。。

 

とにかく、

あの頃に出会った人たちに協力してもらい、

励まされて、

オラは映画監督になり、

芝居の演出をしているのだ。

そう思うとやはり、必要な季節だったのだ。。。

 

梅雨と同時に訪れる、助監督の思い出。

オラにとってそれは、嫌悪と焦燥と感謝の入り交じった、不快な「6月病」なのだ。

(c) legend of future 2010

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